社会不安障害の認知行動療法
社会不安障害という病気が社会恐怖という名前で再び医学的な治療の対象となるきっかけを作ったのは、アイザック・マークス教授でした。
マークス教授は、高所恐怖や先端恐怖、クモ恐怖など様々な恐怖症に悩む方に対して、専門の行動療法士による系統的な指導のもと、段階的な暴露によって恐怖場面に慣れていってもらう(これを脱感作と言います)行動療法を積極的に実践し、その有効性を次々に発表していました。
こうした単一恐怖と呼ばれる恐怖症は、それに悩む人達の生活や人生に対する悪影響の度合いも少なく、さほど重大な問題とは考えられていませんでした。
社会恐怖も単一恐怖のひとつとして1960年代後半に再び登場したわけですので、当然のことながら、行動療法の効果がある、と考えられていました。
現在では、アメリカのフィラデルフィアの精神科医であったベックが考案したうつ病や不安障害の治療法である認知療法と合わせて行われることが多くなり、認知行動療法と呼ばれています。
ここで注意が必要なのは、ベックが提唱した認知療法でいう認知というのは、脳の働きによって営まれる注意や記憶、言語などの働き、すなわち感情や気分以外の頭の働きを総称していう認知機能とは意味合いが異なるという点です。
ベックの言う認知とは、自分自身や自分の置かれている状況、自分のやってきた過去、自分の将来などについての見方、評価、思い込みなどを指します。
認知療法は、その歪みを系統的に是正して、気分の過度の落ち込みや病的な不安や恐怖を治す治療法です。
現在日本では、うつ病や社会不安障害を含めた各種の不安障害の治療法として認知療法や認知行動療法が注目され、関連する学会には年々多くの医師や心理士が参加し、熱気を帯びています。
認知行動療法を実践する施設の数も増えつつあります。
ただし、薬による治療と同じように、健康保険を使ってどこでもうけられる治療というわけではありません。
気分や感情は自分では意識的にコントロールすることはできませんが、不安や落ち込みの背景にある誤った自己認識や思い込み、ものの見方は是正可能です。
また、不安や恐怖の多くは一種の条件付け学習により強化され、反応が持続します。
ですから、どんなものに対する恐怖症であれ、恐怖症の克服には苦手とする場面や状況を避けずに耐えられる程度のところから徐々に慣らして、条件付けされた心と神経の過敏性を取り除くことが効果があります。
このように恐怖場面を実際に体験することを暴露療法、ないしはイクスポージャーと言います。
身体の病気に例えると、アレルギーの治療の場合と同じように、耐えうる程度の弱い刺激となる恐怖場面から始めて、徐々に過敏な反応を取り除く減感作療法とも言います。
不安障害の場合には、認識の歪みからくる悪循環ばかりでなく、不安恐怖場面を意図的に避けてしまう回避行動と呼ばれる症状がつきものですので、心理面からの認知療法と行動面からの行動療法を組み合わせた認知行動療法が主流となっています。
社会不安障害に対する認知療法や認知行動療法の効果に関しては、多くのデータがあり、SSRIなどの薬による治療と匹敵する効果があることが示されています。
特に認知療法や認知行動療法の優れている点は、治療終了後の再発の率が薬に比べて非常に低い点です。
トレーニングを受けて自分で治す治療とも言えますから、薬と比べて再発率が低いのは当然のことかもしれません。
欧米で社会不安障害の治療に非常によく用いられるパロキセチンと認知行動療法と比較した場合、認知行動療法では治療終了後の再発率が二割以下であったのに対し、パロキセチンでは5割近い方が再発したというデータもあります。
2008年、時点では、社会不安障害に関してはSSRIなどの薬と認知行動療法を同時に行った場合に、各々単独で治療した場合と比べて、治る率が高くなるという科学的なデータはありませんが、臨床医の立場からすれば心理面からの治療である認知行動療法的なアプローチとSSRIを中心とした薬による治療を併用するのが最も現実的な治療法と言えます。
社会不安障害という病気とその治療について患者自身が学ぶことを心理教育ないしはサイコエデュケーションと言いますが、これは認知行動療法の第一段階としても重要なものです。
また、薬を徐々に減らして薬物療法を終了する場合にも、再発防止という点で認知行動療法が重要になります。
すでに一般向けの社会不安障害の本や認知行動療法に関する本がたくさん出ていますが、薬による治療を終了する段階に入った社会不安障害の患者さんの場合には、患者向けの社会不安障害に対する認知行動療法の本を購入してもらい、自己学習するよう指導しています。
これには、例えば名古屋大学の古川壽亮教授らが翻訳した『不安障害の認知行動療法 患者さん向けマニュアル』(星和書店)を薦めています。
そこには、不安恐怖を覚える対人場面での本人の心理が書かれていますが、本を購入して読んだ方のほとんどが異口同音に、「全くこの通りです」と多少びっくりした面持ちで報告します。
多くの社会不安障害に悩む方が対人場面での失敗が心の傷となり、過度に過敏となっていることが分かります。
※参考文献:社会不安障害 田島治著