ここで取り上げていく<社会不安><社会不安障害>は、自己主張をしなくてはならない状況で感じる不安である。
たとえば、誰かから頼まれたことを断る、借金や手助けを誰かに依頼する、誰かの意見に反対する、考え方を異にする人達の前で持論を述べる、批判や非難に対して反論する、店の人に苦情を言う・・・。
これらはすべて、自分の権利を行使したり、自分の希望、要求、意見を他人に示したりする行動である。
こうした行動をとることに不安を感じる人の多くは、よくその理由として「私はノーと言えない性格だから」と言う。
たとえやっかいな頼み事であっても、返済が滞りそうな借金であっても、気乗りしない誘いであっても、相手の要求に対して首を横に振ることに大きな不安を感じてしまうのだ。
それはいったいどうしてなのだろう?
まず、ある相談者の話を聞いてみて欲しい。
誰かに何かを貸してあげた時、自分の方から「返して欲しい」とは決して言えないたちなんです。
そんなことを言うと、なんだか自分が、お金やモノに執着しているケチでがめつい人間みたいな気がしてきて・・・。
本来なら、借りたお金や本を返さない相手の方が間違っているはずですよね。
わかってはいるんですが、逆に、貸してあげた私のほうが罪の意識を感じてしまうんです。
相手の批判、非難、不快な態度が怖い
実際、この事例のような「自己主張をする不安」のケースは枚挙に暇がない。
ある配管職人の男性は、客に支払いを要求したり、支払いを滞納する客に催促をしたりできなかったため、とうとう破産寸前にまで追い込まれてしまった。
また、政治難民として渡仏して古道具店を開業したある男性は、客に求められるままに次々と値引きに応じてしまい、商売が成り立たなくなってしまった。
さらに、前世紀初めにこんな言葉を残した人もいる。
《私は、人に何かを要求するのが嫌いだ。恐ろしく苦痛を感じる。
だって、こちらから要求しなくても、向こうから提供するのが当たり前だろう?》
ソーシャルワーカーのような仕事をしていても、この種の不安から逃れられない人もいる。
ある女性は、プレタポルテ服のブティックに入るのにかなりの勇気を必要としていた。
なぜなら、たとえ気に入ったものが見つからなくても、店員から非難がましい目で見られるのが怖くて、手ぶらで店を出ることができなかったからである。
そのため、おそらく一生身に付けることのないであろう趣味の合わない商品を、欲しくもないのにわざわざ購入していたのだ。
こうした不安は、相手からの批判、非難、不快な態度を怖れるが故に生れるものだある。
その点、スーパーマーケットなどのセルフサービス店や通信販売の存在は、この種の不安を感じる人にとってはまさにうってつけのシステムに違いない(もっとも、これは先で見るようにうわべだけの解決策にすぎないのだが)。
さらに、この種の不安を感じる人の多くは、相手にとってあまり好ましくない話を切り出すことにも、おおきな不安を感じる傾向が強い。
ただし、当人には、不安を感じているという意識がない場合も少なくないのだが・・・。
たとえば、ある男性は、かつて勤めていた会社の経営者について、次のように語っている。
「どうやら社長には、試用期間の後も、僕を雇い続ける気はなかったようです。
直接そう言われたわけじゃないんですが、そりゃ一目瞭然ですよ。
だって、あからさまにぼくを避けたり、仏頂面をしたり、冷たい態度をとったりするんですから。
それならそうと、面と向かって言ってくれればいいのに。
「さて、しばらくうちで働いてもらっていたが、どうやら君はこの仕事には向いていないようだね。残念だが、このまま君を雇い入れるわけにはいかない」ってね。
それならそれで、こっちだって感情的になったえいせずに、もっと穏便に済ますことができたのに・・・。
しまいには、挨拶もしてくれなくなって、ぼく一人除け者にされたんですから。
誰だって頭にきますよ。
いくら直接ぼくに解雇を伝えづらいからって、態度でわからせようとするなんて!」
他人の反応がわからない不安
おそらく先の事例の経営者は、この男性に解雇の旨を伝えて、彼を怒らせたり、機嫌をを損ねたり、反論されたりするのを怖れたのだろう。
さあ、そろそろみなさんもお分かりだと思う。
ここで取り上げているタイプの<社会不安><社会不安障害>は、自分の行動に対して相手が非難や批判などをするのではないか、という怖れから生まれている。
破産しかけた配管職人も、商売に失敗した古道具店主も、洋服店に入れないソーシャルワーカーも、みな同様だ。
つまり、このタイプの不安を一言で表現するなら、「他人の反応が分からない不安」である。
こんなことを頼んだらこの人はどう言うだろう、あるいはどうするだろう、「嫌だ」と言われたらどうしよう、こんなふうに反論したら相手はどんな反応をするだろう、もしかしたら怒らせたり、傷つけたり、機嫌をそこねたりしてしまうかもしれない・・・。
こういう不安に襲われてしまうために、私達はしばしば、自分が持っている最低限の「権利」を行使することさえ断念してしまうのだ。
いや、「権利」だけに限らない。
「義務」さえ行使するのをためらうことがある。
たとえば、私達医師は、「義務」として、あまり思わしくない診断結果を患者さんに告げなければならないことがあるが、やはり気づまりに思ったり、不安を感じたりしてしまうものだから。
※参考文献:他人がこわい あがり症・内気・社会恐怖の心理学
クリストフ・アンドレ&パトリック・レジュロン著 高野優監訳