さて、最後に取り上げるタイプの<社会不安><社会不安障害>は、他人に見られながらごく普通の行為をする状況で感じる不安である。
こういう人達は、とくにこれといった理由もないのに、他人にみられていると思うだけで、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
たとえば、テラス席に人がいっぱい座っているカフェの前を通り過ぎる、講堂で最前列の席へ向かって歩く、他人に見られながら車の運転や駐車をする、満席のレストランでひとりで食事をする・・・。
これらの状況では、1の状況で要求される「実力の発揮」も、2の状況で期待される「気の利いた会話」も、3の状況で必要とされる「自らの権利(義務)の行使」も、まったくもって無縁である。
ここではただ単に、ふつう当たり前のようにやっていることをいつも通りにすればいいだけのことなのだ。
ただし他人の視線を浴びながら・・・。
いったいそこには、どういう心理が働いているのだろう。
まず、ある市役所の女性職員の話を聞いてみよう。
「私、誰かにみられていると、字を書くことができなくなってしまうんです。
私が担当する窓口でも、たとえば用紙に何かを書き込まなくてはならない時は、何かと口実を設けて奥へ引っ込んでしまい、誰もいないところでこっそりと記入してるんです。
他に、上司に何か指示をされても、その場でメモを取ることさえできません。
不審に思った上司に「なんでメモを取らないんだ?」と尋ねられた時は、「私には人並みはずれた記憶力があるんです」と、冗談交じりで答えるしかありませんでした。
自分ひとりの時なら平気なんです。
ところが、だれかがすぐそばにいると思うだけで、ペンを持つ手が震えて、全身に汗をかき、ペン先がまったく動かなくなってしまうんです。」
実は、かのナポレオン三世も、この女性と似たような悩みを抱えていたという。
当時の新聞記事にこんなことが書かれている。
「これは、記者があるところで聞いた話なのだが・・・、ナポレオン三世は、日曜のミサに参列するためにチュイルリー宮の礼拝堂に入ろうとした時、一瞬、ためらう素振りを見せたという。
彼は、自分が礼拝堂に入ると同時に参列者たちが一斉にこちらに注目するだろう、と考えた。
そこで、入って行く前にきちんと身なりを整え、姿勢を正した。
そして、歩を進めるのを幾度かためらったのち、ようやく意を決したかのように礼拝堂のなかへと入っていった。
そうして、参列者の視線にビクビクと脅えながら、どうにかして自分の席、つまり皇帝の席まで辿りついたのだ。
他人に見られる不安
歩いたり、字を書いたり、グラスに入った水を飲んだり、ナイフとフォークを使ったり、髪をかき上げたりといった、いつもなら自然に行っているはずのごく当たり前の動作が、どうしても自然にできなくなってしまう・・・・。
それは、他人に見られることによる<きまりの悪さ>のせいである。
他人の視線を感じた時に、「なんだかみんなに見られている気がするけれど、私、顔に何かついてるのかしら?」、「あそこに座っている女の子がこっちを見ているようだけど、俺に気でもあるのかな?」など、ふと感じることがあるかもしれない。
そして、たとえ他人に見られていても「いつも通りにしなくては」、「自然にしなくては」と自分に強いる気持ちが、かえって緊張や不安を呼び起こし、そのせいで動作がぎくしゃくしてしまうのだ。
ある意味、こういう不安をたまに感じてしまうのは、仕方のないことなのだろう。
ただし、それが頻繁に強い恐怖をもたらし、そのせいで日常生活に支障をきたしてしまう場合は別である。
一例を挙げよう。
ある大学生は講義を受ける時に常にだれよりも早く講堂へ入るようにしていた。
すでに着席している他の学生に見られながら、通路を歩くのが怖いからだ。
同じように、彼は図書館でも誰よりも早く席に着くのだが、いったん座ったが最後、本を探しに書棚へいくこともトイレのために中座することもできなくなってしまう。
これでは、日常生活の妨げになっていると言わざるをえないだろう。
一般的に、他人から見られることに強い不安を感じる人は、映画館、劇場、飛行機、パーティー、会議、講義などに、だれよりも早く到着する努力を惜しまない傾向がある。
ではここで、この種の不安に悩まれているもうひとつの例として、ある女性公務員の話を聞いて欲しい。
会議に出る時は、積極的に発言をする人の隣には座らないようにしているの。
だって、その人が発言している間、みんなが私のいる方を見るでしょう?
みんなが見ているのが私なのか、隣人なのか、よく知らないけど、いずれにしても、いったい私はどこを見たらいいのか、どんな表情をしたらいいのか、どんな姿勢をしていたらいいのか、わからなくなってしまうのよ。
そんな時、ドキドキしながら心の中でつぶやくの。「まったく、私ったらなんて運が悪いの!」
どういうわけか、私はこういう状況をさけようとしているのに、いつも他の人じゃなくて私がこういう目に遭ってしまうのよ。
会議中だけじゃないわ、スーパーのレジで大声で文句を言っている人の真後ろにいたり、店の商品を壊した人のすぐそばにいたり、ホテルの警報装置を間違えて鳴らした人の真横にいたり・・・、とにかく、いつもまわりから注目される人の近くにいるのよ。
この事例の女性は、どこにいても何をしていても他人の視線が怖いので、日常生活に大きな苦痛を感じてしまっている。
最後に、余談をひとつ。
実は、この種の不安を感じるきっかけは「見られる」ことにだけに限らない。
例えば、楽器の練習をする人なら、「聞かれる」のが耐えられないということもあるだろう。
自分が練習している音を、誰かが耳をそばだてて聞いているのではないかと疑うあまり、部屋中を閉め切り、近くに誰もいないことを確かめない限り、落ち着いて練習ができなくなってしまうのだ。
社会不安、社会不安障害のピラミッド
「社会不安、社会不安障害の四つの状況」は次の通りである。
1.他人の前で発表をする、演技、演奏、競技をする(他人に評価される不安)
2.よく知らない相手と話をする、異性と会話を交わす(他人に見透かされる不安)
3.他人に何かを要求する、自己主張をする(他人の反応が分からない不安)
4.他人に見られながら日常的な行為をする(他人に見られる不安)
読者のみなさんのなかで、いずれの状況での不安にもまったく心当たりがないという人は、おそらくほとんどいないだろう。
過去の研究結果によると、「これまでに一度も<社会不安>を感じたことがない」という人は、フランス全人口の10%にも満たないという。
それはすなわち、現代社会において<社会不安><社会不安障害>を引き起こしうる状況はあちこちに転がっているということだ。
そして、人によって<社会不安><社会不安障害>を感じる状況はまちまちである。
ある人は、レストランで給仕に文句を言うことはできないのに、車を縦列駐車しているところを誰かに見られるのは平気だったりする。
また別の人は、たくさんの人の前で発表するのは苦手だけど、個人面接には不安を感じなかったりする。
実は、これら四つの<社会不安>は、感じる頻度に応じて、ピラミッド型の図に表わすことができる。(図1-1)
ピラミッドの一番下は、もっとも多くの人が感じる「他人に評価される不安」で、二番目が「他人に見透かされる不安」、三番目が「他人の反応が分からない不安」、そして一番上が、もっとも感じる人が少ない「他人に見られる不安」である。
原則として、上の方の不安を感じる人は、その下の不安も必ず感じることになる(ただし、一部の例外はあるが)。
例えば、二番目の「他人に見透かされる不安」を感じる人は、その下の「評価される不安」も感じることになる。
しかし、その上の「他人の反応がわからない不安」と「他人に見られる不安」は、必ずしも感じるとは限らない。
ということは、ピラミッドの一番上の「他人に見られる不安」を感じる人は、他のすべての状況にも不安を感じることになる。
以下に紹介するナタリーもそのひとりである。
「私はあらゆることが怖いんです。
こうやって、先生のクリニックに相談に来るのも怖いし、予約を入れるのも怖い。
助手のみなさんや他の患者さんから見られるのも怖いし、ここの帰り道に通行人たちに見られるのも怖い。
パン屋に立ち寄ってパンを買うのも怖いし、マンションへ戻って階段で隣人とすれ違うのも怖い。
家にいても、誰からかかって来たのかわからない電話に出るのが怖い・・・。
さらに言うと、職場では、会議で発言するのはもちろん、単に聞かれたことに受け答えするのも怖いんです。
自分の人生においても、好きになりそうな人に出会うのが怖いんです。
だって、もしその人に気に入ってもらえなかったらと思うと・・・。
私達の日常生活は、<社会不安><社会不安障害>をもたらす状況であふれかえっている。
つまり私達は誰でも、どこでも、何をしていても、<社会不安><社会不安障害>を感じる可能性が十分にあるということだ。
たとえば、つい最近、作家の友人が最新作を宣伝するために、あるテレビ番組に出演していた。
その番組の司会者は、口やかましくて無礼なことで知られており、それだけでも彼にとっては不安の種になりえただろう。
しかし、それだけではない。
その番組で彼が置かれた状況というのが、まさにここで挙げた「社会不安を感じる四つの状況」のすべてを併せ持つ状況だったのである。
まず、たくさんの視聴者の前で作品を紹介する不安(他人に評価される不安)、そして、司会者の歯に衣着せぬ質問に受け答えする不安(他人に見透かされる不安)、司会者の批判や反論を覚悟しながら自分の考えを述べる不安(他人の反応が分からない不安)、最後に、気付かないうちにカメラにアップでとらえられているかもしれない不安(他人に見られる不安)・・・。
まとめ
私達は、他人との関わりの中で、さまざまな<社会不安><社会不安障害>を感じている。
これらの不安の唯一の共通点、それは、「他人の視線」にさらされているということだ。
ところが、多くの研究者たちは、<社会不安><社会不安障害>と<評価不安>を誤って同一視してしまっている。
たしかに、<遂行不安>の項でも見て来たように、他者から評価される状況は、私達を大きな不安に陥れることがある。
だが、すべての<評価不安>が<社会不安><社会不安障害>なわけではない。
たとえば、筆記試験を受けた時に、他人から評価されるのを怖れて極度に緊張してしまう学生は、<社会不安><社会不安障害>ではなく<評価不安>を感じている。
なぜなら、この場合、学生が試験を受けている状況に「他人の視線」は存在しないからだ。
だが、この学生が口述試験を受けた時の不安は、試験官に見られることへの怖れも関連してくるので、<評価不安>以外に<社会不安><社会不安障害>も感じているといえるだろう。
この違い、おわかりいただけるだろうか?
それでは、私達が不安を感じる状況に陥った時、私達の内側ではいったい何が起きているのだろうか?
実は、私達が不安を感じる状況に陥った時、私達の内側ではいったい何が起きているのだろうか?
実は、私達の不安は、それがいかなる種類のものであろうとも<身体不安>、<行動>、<認知>という三つの側面に少なからず影響を与えている。
そこで次の章からはこれら三つの側面についてひとつずつ順に述べていくことにしたい。
※参考文献:他人がこわい あがり症・内気・社会恐怖の心理学
クリストフ・アンドレ&パトリック・レジュロン著 高野優監訳