フランスの人気歌手セルジュ・ゲーンズブールは、自分のとった<不自然な行動>について、次のように述べたことがある。

十七歳の頃のことだ。

診療所から帰る時、先生が階段の踊り場までわざわざ見送ってくれたんだ。

その時、僕は緊張のあまり、先生に向かって、「さようなら、マドモアゼル(お嬢さん)」と言ってしまった。

慌てた僕は、続けて、「こんにちは、ムッシュー、どういたしまして」と、わけのわからないことを口走った。

ぼくは、もうそれ以上どうしたらいいのかわからなくなって、しきりに足ふきマットで靴底をぬぐうしかなかったよ。

先に挙げた例やこのゲーンズブールのように、<社会不安障害><社会不安>を感じたせいで、「他人とのコミュニケーションがぎこちなくなる」場合があることは、さまざまな研究結果によってすでに証明されている。

そしてそれは、人によって、あるいは状況によって、ふたつのパターンに分けることができる。

ひとつは「極度の興奮状態になる」パターン、もうひとつは「茫然自失に陥る」パターンである。

極度の興奮状態になる

まず、不安を感じて「極度の興奮状態」に陥ったため、他人とのコミュニケーションがぎこちなくなってしまうパターンから。

みなさんも、強い不安を感じる状況で、舞い上がって何が何だかわからなくなり、思わず心にもないことを言ったりやったりしてしまったことはないだろうか?

こうした<不自然な行動>は、実は不安を感じた当人が、「なんとかこの場にふさわしい行動をとりたい」と焦る気持ちの現われであることが多い。

この種の行動は、コメディー映画やドラマで笑いの対象として使われることも少なくない。

フランスの映画監督ピエール・リシャールも、数多くの作品のなかで、こうした状況をうまく表現している(代表作は『ぼくは臆病だけど、頑張っている』(日本未公開))。

また、ウッディ・アレンが脚本、主演を担当した映画『ボギー!俺も男だ』(1972年)で、アレンが女性を部屋で待ちわびているシーンは、私達観客の苦笑を誘う。

意中の女性がやって来た時、彼はわけの分からない言葉を発し、ぎこちない動作をすることしかできなかった。

部屋に入ってくつろいでほしいと言おうとして、左手に持っていたレコードジャケットを宙に飛ばしてしまったり、来てくれて嬉しいという気持ちを態度で示そうとして、思わずナチスのような敬礼をしてしまったり・・・。

「極度の興奮状態」は、他にもさまざまな<不自然な行動>を引き起こす。

たとえば、私の友人のひとりに、あまり親しくない相手と話をする時に、いつも早口でまくしたててしまう人がいる。

そういう時の彼は、私達が傍目から見てもよくわかるほどの「極度のパニック状態」に陥っているのだ。

また別の友人は、あがってしまうと自然な動作ができなくなり、そのせいで次々とへまを重ねてしまう。

たとえば彼は、パーティで隣人の足元にシャンパンをこぼし、それを拭こうとしゃがみ込んで頭をテーブルの角にぶつけたりして、周りの人達から失笑をかってしまうのだ。

他にも、これは「他人とのコミュニケーション」というテーマからは離れるが、試合に出場しているサッカー選手などが、不安による「興奮状態」のために、いつもならかんがえられないようなミスをおかしてしまうこともある。

茫然自失に陥る

今度は、不安を感じて「茫然自失」に陥ったために、他人とのコミュニケーションがぎこちなくなってしまうパターン。

まず、そういう経験をしたことがあるエミリーという女性の話を聞いて欲しい。

趣味のサークル仲間の食事会に参加した時のことです。

「よし、みんなとたくさんおしゃべりをして、思いきり楽しもう」と、前日からはりきってました。

でも、最初のうちは元気だったんですが、どうしてか、だんだんと気持ちが沈んできてしまったんです。

たしか・・・、よく覚えていないんですが、話しかけた人に返事をしてもらえなかったとか、さり気なく視線をはずされたような気がしたとか、そういうことがきっかけだったような気がします。

やがて、他人とおしゃべりをする意欲をすっかり失ってしまい、ふと気づくと、会話の輪から離れたところにぽつんと座っていました。

「いったい私はどうしてここにいるんだろう?

私なんて、いてもいなくても変わらないのに・・・」。

そう思うと、どんどん暗い気分に陥っていきました。

そんな時、誰かに「どうしたの?元気ないね」と声をかけられても、もう遅いんです。

すべてのことがどうでもよくなっていて、再び気持ちを立て直すことなんてとてもできなくなっているんです。

エミリーは、他人のちょっとしたしぐさから「自分は無視されている」、「嫌われている」と思い込んでしまったため、強い不安から「茫然自失状態」に陥り、完全に気力をなくしてしまった。

前項の「極度の興奮状態になる」が「状況に無理やり立ち向かおうとして、空回りしている状態」であるのに対し、こちらは逆に「状況に立ち向かうことを諦めて、耐え忍んでいる状態」である。

フランス十九世紀の作家バンジャマン・コンスタンは、自著の小説の主人公アドルフがこういう状態に陥った時のことを、次のように表現している。

私が発しようとする言葉は、すべて唇を出る前に消えてしまい、やっとでたかと思ったら、それは考えていたのとは別の言葉になってしまった。

言ってみれば、最初の「極度の興奮状態」は、自動車のアクセルが元に戻らなくなってしまったようなもので、二つ目の「茫然自失状態」は、逆にどうしてもエンジンがかからなくなってしまったようなものである。

つまり、不安を感じている状態をなんとか打開しようともがく場合も、逆に諦めて何もしなくなってしまう場合も、どちらも同じようにコミュニケーションがぎこちなくなってしまうのだ。

※参考文献:他人がこわい あがり症・内気・社会恐怖の心理学
      クリストフ・アンドレ&パトリック・レジュロン著 高野優監訳