まず、次の項目のなかに該当するものがあるかどうかを見てみて下さい。
・人前で自分が何かを言ったり行ったりすることによって恥ずかしい思いをするのではないかという強い恐怖がある。
・失敗することや、人から見られること、評価を下されることがいつもとてもこわい。
・恥ずかしい思いをするのではないかという恐怖のために、やりたいこともできないし、人と話をすることもできない。
・人と会わなければならないときは、その前に何日間も何週間も悩む。
・知らない人と一緒にいるときに、あるいはその前に、顔が赤くなったり、たくさん汗をかいたり、ふるえたり、吐きそうになったりする
・学校行事や人前で話すような状況など、人とかかわる場を避けることが多い。
・以上の恐怖を追い払うために飲酒することが多い。
どんな人でも、程度の強弱や時間の長短を問わなければ、これらの項目のひとつくらいは該当したことがあるのではないでしょうか。
たとえば、自分のキャリアを左右するような重要な会議の前に「失敗するのではないか」「能力がないことを見破られるのではないか」と心配するのは正常なことです。
また、予習をしていない授業で「先生に当てられたらどうしよう」とドキドキするのも正常なことです。
ずっと憧れてきた人とデートをする前には、何日間も悩んで、自分がどう見えるだろうかということばかりを考えるかもしれません。
それらは正常な反応であり、病気ではありません。
むしろ、不安を感じるからこそ、必要な準備をする気にもなるわけですし、不安の存在意義(「安全の確保」)はそこにあります。
不安が健康な範囲で機能している限り、それはいわゆる「ポジティブなストレス」と言われるものになるでしょう。
安全だけれども退屈な毎日を送るのではなく、適度な緊張に自分をさらすことが人生の刺激になると考えている人は多いと思います。
実は、先ほど挙げた項目は、米国保健研究所(NIH)が出している冊子に書かれているもので、社会不安障害(社交不安症)を見つけるためのチェックリストです。
該当する項目があったら社会不安障害かもしれない、というものです。
不安障害は不安の「質の問題」ではなく「程度の問題」です。
ですから、これらの項目のどれかひとつがときどき当てはまるからと言って、社会不安障害だということではありません。
社会不安障害という診断があてはまる人は、そのような不安が日常のほとんどの領域におよび、毎日続くというふうに考えていただくとわかりやすいと思います。
つまり、自分のキャリアを左右するほど重要な会議でもないのに会議に対して強い不安を常に感じたり、予習をしてあって本当は正しい答えを知っているのに「先生に当てられたらどうしよう」とドキドキしたり、別に憧れの人と会うわけでもないのに何日間も悩んで、自分がどう見えるだろうかということばかりを考えたり・・・という具合です。
「正常な反応」とテーマは同じだけれども、程度があまりにも違うということがおわかりいただけるでしょうか。
そして、社会不安障害を持つ本人も、自分の不安が合理的なものではないということを自覚しています。
だからこそつらいのです。
もしも心から自分の不安が妥当なものだと信じることができれば、社会不安障害特有の苦しみはなくなると思います。
「不合理な不安にとらわれて社会生活に支障をきたしている自分についての情けなさ」も、社会不安障害の苦しみの重要な要素だからです。
そんな自分を「弱い」「自意識過剰」「どこかおかしい」と感じてしまうのです。
ここで改めて、アメリカ精神医学会の診断基準(DSM-Ⅳ-TR)から、社会不安障害の重要な部分をご紹介しましょう。
一般向けにわかりやすく書き直してあります。
(1)よく知らない人達を前にした状況や行為に対する著しく持続的な恐怖がある。
自分が恥をかかされたり、恥かしい思いをしたりするような形で行動する(あるいは不安反応を呈す)ことを恐れる。
(2)(1)の状況にさらされると、ほとんど必ず不安反応が誘発される。
(3)自分の恐怖が過剰、または不合理であることを認識している。
(4)(1)の状況を回避しているか、強い不安または苦痛を感じながら耐え忍んでいる。
(5)(1)の状況の回避や苦痛のために、正常な生活が障害されているか、著しい苦痛を感じている。
(1)が社会不安障害の中心となる基準ですが、その核となるのは、恥かしい思いをすることや、自分が「弱い」「どこかおかしい」人間であることに他人が気付くのではないか、ということです。
社会不安障害の患者さんの多くは、「本当の自分」を知ったら、他人はきっと自分のことを嫌いになるだろうと思っています。
他人が気付くのはもちろん自分の外面を通してですから、「自分がどう見えるか」をとても気にします。
自分の身体や声がふるえていることに他人が気付くのではないかと恐れ、人前で話すのを避けることも多いです。
人前で字を書いたり飲食したりするのを避ける人もいますが、それは手がふるえたりぎこちない食べ方をしたりするのを見破られて自分が「変な」人間であることが露見してしまうのを恐れてのことです。
(5)の、「正常な生活が障害されている」というのは、明らかに自分にとって必要なことやプラスだと思われるようなことでも、不安のために見送らざるをえないような状態だと考えてください。
つまり、生活がかなりの程度不安によって制限されているということです。
(1)~(5)がすべてあてはまっており、それらの症状が他の原因(薬物など)によるものでなければ、社会不安障害である可能性はかなり高いでしょう。
本当に「社会不安障害」という診断を下すには専門家による面接が必要ですが、診断を受けていなくても、自分が該当すると思われる方には、本サイトが何らかのお役に立つと思います。
どこからどこまでが社会不安障害かということについてはいろいろ議論があり、専門家の間でも決して意見が統一されているわけではありません。
あくまでも本人の主観に基づいて診断すれば、かなりの数の人が社会不安障害として診断されることになりますが、それについて批判的な人もいます。
社会不安障害の有病率の研究も、どこからどこまでを「病気」として見るか、ということや、研究の方法(専門家が正確な面接をするのかどうか)によって、結果にかなりのばらつきがあります。
社会不安障害を広くとることについて懸念している人達の言い分は理解できます。
誰でも安易に病人扱いして薬を飲ませようとするのはけしからん、という意見にはもちろん賛成です。
でも、本来病人扱いしないですむはずの人まで病人扱いすることを何よりも問題視する姿勢は、こと社会不安障害については、あまり適切だとは思いません。
なぜかというと、社会不安障害の場合、「病気でない人が病気扱いされている数」よりも、「病気であるのに病気扱いされていない人の数」のほうが圧倒的に多いだろうと思うからです。
それは、病気として知られていないということもありますが、それ以上に、「自分は病気だと思わない」という感じ方も社会不安障害の特徴だからです。
自分は人間としてできそこないなのだ、と感じている人がとても多いのです。
ですから、病気を狭くとろうとする考え方は、社会不安障害とはあまり相性がよくないと言えます。
もちろん、どんな病気でも診断は正確にすべきで、それは社会不安障害も例外ではありません。
本サイトでは、診断を受けに足を伸ばせない方(後述しますが、社会不安障害の場合は、そういう方が多いのです)も十分に意識して、あえて、社会不安障害を広くとる立場をとっていきます。
※参考文献:対人関係療法でなおす社交不安障害 水島広子著