不安反応としての身体症状は確かにやっかいなものです。

身体症状がでてしまうと、「自分の不安が露見してしまうのではないか」という恐怖が、実際に現実のものになりうるからです(人は他人のことをそれほどよく見ていないことが多いので、思ったほどは気付かれないのですが)。

また身体症状そのものは、本来の不安に上乗せして不安を強化するものです。

対人関係療法では、不安そのものをどうするかということには焦点を当てないので、呼吸法などのリラクセーション法を用いることなどは治療の要素にはなりません(もちろん、個人的にそれらを試されることには何の問題もありません)。

対人関係療法では、身体症状に対して、

(1)対人関係療法によって不安の基本レベルを下げ、不安反応を減じていく
(2)症状に力を与えないように、症状との付き合い方を変える

という姿勢をとります。

自分の不安反応に対してふあんになることで、社会不安障害は悪循環に陥ります。

病気について学ぶことのひとつのメリットは、それが単なる症状以上の意味を持たないということを知ることです。

社会不安障害は火災報知器のセンサーの設定がずれてしまったような状態であり、直す必要がありません。

そして、センサーがずれてしまっているのは単なる病気の症状であり、それ以上の意味を持つものではありません。

病気と人格は別のものです。

発汗や赤面をしたからと言って自分がダメな人間だという意味ではないのです。

まずはその点を押さえておく必要があります。

そして、「病気を治す」ということを考えた場合、症状にできるだけ振り回されずに治療の課題をこなしていくことが必要になります。

たとえば、虫垂炎でひどい腹痛に襲われたときには、腹痛を抱えながらも治療を求めるでしょう。

ひどい腹痛があるのに病院に行き症状について説明をするのは決して楽な話ではありませんが、健康を取り戻すために必要なことだとわかっているからです。

また、怪我をして痛みがひどいとき、傷口が大きければ縫合してもらう必要があります。

ただでさえ怪我の痛みがひどいのに、縫合は一時的にさらに痛みを引き起こす治療です。

これも決して楽な話ではありませんが、怪我から回復して健康を取り戻すために必要なことだとわかっているので私たちは受け入れるのです。

社会不安障害についても実は全く同じことで、決して楽な話ではないけれども、一時的に症状をこらえて治療を受ける必要があるのです。

そしてまわりの人がとるべき姿勢も、同じように考えられます。

痛みがひどい人(不安が強い人)に対して、「痛みを我慢しろ(不安を我慢しろ)」というのではなく、「痛いね。大変だね。ちょっとの間つらいけれども、早くよくなるようにがんばろうね(不安だね。大変だね。ちょっとの間つらいけれども、早く良くなるようにがんばろうね)」と言うのが適切だということをご理解いただけると思います。

たとえば、人前で話すことに恐怖を持っている社会不安障害の患者さんが、人前で話す新しいパターンを試していく際に、声が震えるために不安が強まる、ということがあるのでしょう。

その際、それが治療の過程で当然想定されることだとわかっていないと「声が震えるから無理です」ということになってしまいます。

でも、その症状を治すために治療をしているのであり、その治療のためには一時的に症状が強まる時期を通らなければならない、ということを知っていれば、「声が震えるのは当然です。

そういう症状の病気にかかっているからです。

その病気を治すための治療に集中しましょう」というふうに考えることが可能になります。

症状は、症状として受け入れるときに、もっとも力を失うのです。

※参考文献:対人関係療法でなおす社交不安障害 水島広子著