新しい役割への適応は精神論だけですむ話ではなく、実際に「できるようにならなければいけないこと」もあるでしょう。
社会不安障害の人の場合、困難だと感じるのは物理的なことよりも、「人とのやりとりの新しい形を学ぶ」というテーマであることが多いものです。
「できるようにならなければいけないこと」について、対人関係療法では主にふたつの方向から取り組みます。
ひとつは、「できるようにならなければいけないこと」ができるようになるために、そのようにして他人の力を活用できるか、という観点から検討することです。
どんな人も、実はたいていの変化を乗り越えることができる力を持っています。
なぜかというと、人は一人で生きているわけではないからです。
シラネさんは、研修担当になることによって、人に何かを伝えて理解してもらうという全く新しい課題に直面することになったわけですが、突然そのような役割を担うことになったら、まずはうまくいかなくて当たり前です。
社会不安障害のシラネさんがもしも「変化を乗り越えることができる力」を発揮することができていたとしたら、たとえば、実際の研修が始まる前に上司と「しばらくは研修の様子を見てフィードバックをしてください」と打ち合わせておくこともできたでしょう。
あるいは、新人が初日に「あくびをした」というできごとを上司に報告して、そのようなときにはどう受け止めたらよいのか、あくびをしないように指摘すべきなのか、研修内容を変えたらよいのか、というような相談をしてもよかったと思います。
社会不安障害のシラネさんがこれらのことを実際に行わなかった理由は、「そんなことを相談すると自分がいかに無能であるかがわかってしまうから」でした。
これについては、それが別の人に起こったことでも同じように感じるだろうか、ということを考えてもらいました。
医師:シラネさんが後輩に全く初めての仕事を頼むことにして、その後輩が「しばらくは仕事の様子を見てフィードバックしてください」と頼んできたり、「今日こんなことがあったのですが、どのように対応したらよいのでしょうか」と相談してきたりしたら、シラネさんは「なんて使えない人だろう」と思いますか?
シラネ(社会不安障害の患者さん):・・・まさか、そんな。
こちらだって頼むときに「大丈夫かな?」と思うわけですし、いろいろと相談してくれるのは別におかしくないと思います・・・というよりも、私は、人にそんなことを頼んでしまってよかったのだろうか、といつも不安に感じるほうなので、後輩が相談してくれると安心するんです。
後輩の様子がよくわかりますから。
医師:その通りですよね。
相談という形で様子を教えてくれるのは、むしろありがたいことですよね。
シラネ(社会不安障害の患者さん):はい。
医師:たとえば、後輩が、仕事を頼まれたきり、何の報告も相談もしてこなかったら、どう思いすですか?
シラネ(社会不安障害の患者さん):・・・もちろん、仕事そのもののことも気になりますが・・・私の場合、それ以上に、後輩はこんな仕事を押し付けられて不愉快なんじゃないか、とか、そういうことが気になると思います。
医師:なるほど。こうやって考えてみると、シラネさんの上司にとって、シラネさんが相談してくださることも、決して悪いことではないと思いますが。
上司というのは、部下に点数をつけることが一番の仕事ではなくて、部下をうまく活用して会社のためになる成果を上げることが仕事なのですから。
うまく活用するためには、部下がどんなふうにやっているかを知っておきたいのではないでしょうか。
シラネ(社会不安障害の患者さん):・・・それもそうですね。
ここでは新しい仕事を始めるに当たって上司の協力をえるという新たなスキルを検討しています。
社会不安障害のシラネさんもそうですが、多くの場合、それは「スキルを学ぶ」というよりも、その障害となっている思い込みを実際に検討してみるという形をとります。
社会不安障害のシラネさんの場合も、「何が気になるのか」を明確にしながら、新たなパターンを少しずつ試していきました。
そのなかには、定期的に上司に研修の報告をし、うまくいっていないと自分が思う点について上司の意見をあおぐ、というようなことも含まれました。
また、もう一つの柱としては、新たに必要となるスキルそのものが対人関係的な性質のものである場合は、その内容もよく検討してみる、ということがあります。
社会不安障害のシラネさんの場合には、研修という対人関係でした。
対人関係療法の治療者は研修の専門家ではないので研修の仕方を一緒に考えるわけではないのですが、たとえば新人が「あくびをした」ということを、「自分の研修は平凡で退屈だ」というメッセージに受け取った、という点に注目していきます。
研修を効果的に進めていくためには、相手からきちんとフィードバックを受ける必要があります。
あくびを解釈するよりも適切なやり方があるでしょう。
フィードバックを受ける方法について、社会不安障害のシラネさんといろいろな可能性を検討してみました。
最もシンプルなやり方は「今日の研修はどうでしたか?」と直接評価を求めることでしたが、社会不安障害を持つシラネさんにとっては恐ろし過ぎてできないことでした。
特に複数の新人に同時にクレームをつけられるようなシーンは、考えただけで会社を辞めたくなりました。
最終的に、個別面談を研修プログラムに組み込むことにしました。
そこで、新人の悩みを聞いたり、自信のないところを聞いたりするのです。
研修については、今までの研修がどうだったかということを尋ねるのではなく、「これからの研修で特に身につけていきたいことは何ですか」と尋ねることにしました。
これは、相手の役割期待を明確にする手法です。
自分自身が評価を下されることは不快なことですが、相手の期待を明らかにして、それを満たせるように工夫できるところはする、という姿勢であれば前向きに取り組むことができます。
役割期待に注目するというこの方法は対人関係療法的な考え方ですが、一般の人間関係に応用して役立てることができます。
※参考文献:対人関係療法でなおす社交不安障害 水島広子著