アメリカの社会不安障害の診断基準は妥当か

例えば、アメリカの診断基準の主要項目になっている、人前で何かをしたリ、人と関わったりする複数の状況における、著しくかつ持続的な恐怖について彼らは批判しています。

単にある状況で必ず強い不安が起こるのは生まれつき社交不安の強い性格の人であれば起こりうることで、それは正常なことであると主張します。
ところが、彼らがそうであれば病的としてよいと例外的に考えていることが、むしろ社会不安障害では病理の中核にあるのです。
彼らは不安や恐怖を抱かなくてもよい、家族やよく知っている人達と関わる場合や、まったく他人から注目されることのない社交状況で強い症状がでるとすれば不適応的であり、病的な社交不安と考えてもよいとしています。

実は社会不安障害の場合には、重症な方ですと母親や姉の視線も気になって目を合わすことができない人もいます。
職場で毎日接している数人の同僚との会議でさえ緊張してうまくしゃべれず悩んで落ち込んでいる人も多いのです。
近くの行きつけのコンビニでさえ強い緊張と不安の為落ち着いて買い物ができない人も少なくはありません。
コンビニのドアを開けるのでさえ一大決心がいります。
挙動不審で万引きをしていると店員に勘違いをされるのではないかと気になり、落ち着いて店内の品物を見たり、雑誌の立ち読みをすることなどまったく考えられません。
一目散に目当ての品物のところに行き買い物をして帰ります。
レジでもお金を払うときに店員からみられるのが苦痛でたまりません。
これが実態です。

診断基準の二番目では、本人が恐怖を抱いている社交状況に曝されると必ず不安が引き起こされることとなっています。
場合によってはパニック発作の形を取ることもあるとされております。
彼らはこれに対しても、正常な人であったとしても苦手な場面では必ず不安がひきおこされることがあるので、「必ず引き起こされる」ということは必ずしも病的なこととは言えないのではないかと批判しています。
ただし、日常的な場面でパニック発作になるほどの強い不安反応がでるとすれば病的としてもよいと言っています。

実は社会不安障害の場合には、普通の人であればそれほど不安を感じない日常的な場面で強い不安を感じるために悩んでいるのです。

診断基準の三番目では、本人がこの恐怖が過剰なものであり理屈に合わないとの認識をしていることが入っています。
これも彼らは強く批判しています。
まず何をもって過剰と判断するのか基準がはっきりしないと主張します。
動物の進化という立場から考えると恐怖や不安の反応を、合理的かそれとも非合理的かという視点で見るのは、それこそ理屈に合わないと批判しています。
例えばわれわれは蛇に出くわせば恐怖反応がでますが、もしこの蛇が毒蛇でないとしたら恐怖反応は非合理的となってしまうわけです。
進化の過程では理屈に合わない強い恐怖反応も、まれに起こることがある、破局的な状況から身を守る役割を果たし、生き残る上では適応的とも言えます。

※参考文献:社会不安障害 田島治著