<社会不安障害><社会不安>には他人の視線や評価が密接に関わっている。

こういう説明とはやや矛盾するように思われるかもしれないが、実は<社会不安障害><社会不安>を感じる人達は、そうでない人に比べて、他人の評価を過剰に気にし過ぎているわけではない。

むしろ、他人の視線や評価にさらされる状況に置かれた時、彼らは、周りよりも自分のことを気にし過ぎてしまう傾向が強いのだ。

つまり、自分自身のネガティブな考え、身体反応、不自然な行動などに過剰に意識を集中してしまうのである。

ある相談者はこう言っている。「いったん不安を感じてしまうと、自分が置かれている状況が見えなくなってしまうんです。

自分の不安がどんどん大きくなっていくのを、ただなす術もなく見ていることしかできなくて・・・」

不安を感じる状況で、自分のことだけに心がとらわれてしまうのは、<社会不安障害><社会不安>を感じる人たちの大きな特徴のひとつである。

そのために、周りで何が起こっているのかわからなくなってしまうほどに・・・。

別の相談者はこう言う。「問題は、他人ではなくて私自身にあるのです」。

<社会不安障害><社会不安>を感じる人は、過剰な自意識を抱えて生きている。

しかもそれは、日常生活の妨げになってしまうほど非常に強い自意識なのだ。

十九世紀の小説家が書いた次の一文は、そういう特徴をうまく言い得ているだろう。

《内気な人とは、不器用で愚かな人のことである。

ところが、不器用で愚かな人が、必ずしも内気であるとは限らない。

不器用なのにそのことに気付かない人は、ただ単に鈍くて軽率なだけだ。

自分が不器用であることを知っていて、それについて悩んでいる人、そういう人を内気と呼ぶのである》

だからといって、<社会不安障害><社会不安>を感じる人達が、四六時中常に過剰な自意識になやまされているわけではない。

確かに、不安を感じている時は、彼らは「他人の目を通した自己イメージ」にとらわれすぎる。

「この人はきっとぼくのことをバカだと思っているだろう」、「あの人は私のことを無能な役立たずだと思っているに違いないわ」など、他人の目に自分がどういうふうに映っているのかが、気になってしかたがなくなってしまうのだ。

だがそれはあくまで、他人の視線や評価を意識するような状況においてのことである。

他の状況においては、彼らはごく普通に周りの状況を把握できるし、自分自身のことも冷静に見つめることができる。

こうした、「不安を感じる状況での過剰な自意識」は、<社会不安障害><社会不安>にのみ見られる特徴で、<広場恐怖>や<閉所恐怖>のような他のタイプの<不安症>や<恐怖症>にはいっさい見られない。

<社会不安障害><社会不安>の場合、他人が自分に対して抱いているにちがいない(と本人が思い込んでいる)愚かで情けなくてみっともないイメージにがんじがらめになってしまうところが問題なのだ。

近年の深層心理学の研究でも、<社会不安障害><社会不安>は私達の心のメカニズムに深く根付いてしまうことが明らかにされている。

では、そのメカニズムはいつ、どのようにして作られるだろう?

どうして私達は<社会不安障害><社会不安>を感じるようになってしまうのか。

それは先天的な素質なのか、後天的なものなのか。

もし後天的なものだとしたら、その原因はいったい何なのだろう?

※参考文献:他人がこわい あがり症・内気・社会恐怖の心理学
      クリストフ・アンドレ&パトリック・レジュロン著 高野優監訳